火妖人物語 第3話|人生の挫折/野球との別れ

火妖人物語

**火妖人(びようじん)とは**、孤独から生まれた「心の炎」
悩みや苦しさの中で、何も言わずにそばにいて、
静かに支え続けてくれる存在です。
 ーー増田ヨシヒロ

中学最後の試合。
あの逆転負けは、今でも胸の奥に残っている。

彼女と別れ、私は野球を選んだ。
そして千葉の高校へ進学し、野球部に入った。

しかし現実は甘くなかった。
また球拾いからのスタートだった。

高校野球の現実とシゴキの日々

市川の家から高校までは電車で約1時間。
希望に胸をふくらませて入った野球部だったが、
そこで待っていたのは練習よりもまず「シゴキ」だった。

机の上に座らされ、
バットを膝の裏にはさみ、何十分も正座させられる。

少しでも動けば、広い校庭を三周。

当時は運動中に水を飲んではいけない。
それが当たり前の時代だった。

グラウンドの外周を走っていると、喉が焼けるように乾く。
「水が飲みたい……」

その時、バックネット裏のバケツにたまった雨水が目に入った。
汚いなどと思う余裕はなかった。

それはまるで
神様の水のように見えた。

私は無言でそれを飲んだ。
今でもあの味は忘れられない。

練習前には先輩のグローブやスパイクを磨く。

「なんでこんな汚いのを俺たちがやるんだ」

一人の新人がそうつぶやいた。
私はただ、うなずくだけだった。
それが一年生の役目だった。

だが練習そのものは嫌いではなかった。
夢があるとき、人は強くなれる。

火妖人も、そっと背中を押してくれている気がした。
だから野球をしている時間だけは楽しかった。

疲れ果てた帰り道

練習が終わると、体は正直だった。

帰りの電車では、もうぐったり。
汗のにおいも気にする余裕はなく、
隣の人にもたれかかるように眠ってしまう。

家に帰ると風呂にも入らず、
靴下を履いたまま眠ってしまう。

「たかし、風呂へ入りなさい」

母の声で目が覚める。
そんな日が何日も続いた。

彼女と別れたばかりの私には、
弱音を吐ける場所はなかった。

やがて仲間が一人、また一人と辞めていく。
休部届を出す人もいた。
夏休み前には十五人いた一年生が
私ともう一人だけになっていた。

それでも私は必死に練習を続けた。
火妖人は黙って見守っていた。

教員室での出来事 ― 新しいスパイク

ある日、監督と顧問に呼び出された。

「何をしたんだろう……怒られるのか」

そう思いながら教員室へ入った。

しかし予想は外れた。

「たかし君、頑張っているな。
でもそのスパイクじゃ走りづらいだろう」

そう言って渡されたのは
新品のスパイクだった。

監督は知っていたのだ。
私が中学の頃から、ボロボロのスパイクを履き続けていたことを。

胸が熱くなった。
涙が出そうになった。

家計は母一人で支えていた。
だから「買って」とは言えなかった。

「ありがとうございます」

深く頭を下げ、教員室を出た。
その時、火妖人は少し小さくなりながらも
静かに微笑んでいた気がした。

突然の父の事故と休部の決断

数日後、父がバイク事故で入院したと知らされた。
幸い命に別状はなかったが、家には余裕がなかった。

「アルバイトをするよ」

そう言うと母は
「無理しなくていいよ。野球頑張っているんだから」
と優しく言った。

それでも私は分かっていた。
現実から逃げることはできない。

私は休部届を出した。

初めてのアルバイトと昭和の現実

市川駅近くの喫茶店で働き始めた。

仕事は簡単だったが緊張した。
店長が味噌汁の作り方を教えてくれた時は
少しうれしかった。

だが昭和の時代、こんなこともあった。

食べ残しのサクランボを捨てると
店長が怒鳴った。

「まだ使える。洗って出すんだ」

善悪も分からないまま
私はうなずくしかなかった。

夏が終わり、給料袋を母に渡す。
母は「ありがとう」と小さくうなずいた。

それだけで胸がいっぱいになった。

孤独と野球との別れ

アルバイトを終え、野球部へ戻った。

だが現実は残酷だった。

「たかし、お前は球拾いだ。向こうへ行け」

頭が真っ白になった。

(なぜだ。
休んでいた連中がバッティングしているのに
なぜ俺だけが球拾いなんだ)

火妖怪の声が聞こえた気がした。

「お前はもう、いらないんだよ」

家に帰ると、怒りと悲しみが混ざり合った。
あの暑い夏の日々は何だったのか。

ずるい。
みんなずるい。

三歳の孤独がよみがえる。
置き去りにされた記憶が胸を締めつける。

涙が止まらなかった。

「もう……辞めよう」

火妖人も寂しそうにこちらを見ていた。

厳しい練習には耐えられた。
だが孤独には勝てなかった。

私は夢をあきらめ、退部した。

心の崩壊と突然の変貌

相談できる人はいなかった。

兄はアメリカへ留学。
母は仕事に追われ、
父は酒に溺れていた。

夢の終わりは、あまりにも無情だった。

毎日何百回も素振りをした日々。
ブロック塀にボールをぶつけた日々。

すべてが幻のように消えていった。

やがて私は何も感じなくなった。
学校へ行き、帰って寝るだけの毎日。

心の崩壊と変貌

「もう死にたい」
本気でそう思った。

部屋の隅には、
泥の乾いた跡が残るスパイクが
ぽつんと置かれていた。

あの時、監督と顧問が買ってくれたものだ。
何度もそれを履いてグラウンドを走った。
白い土を蹴り上げ、夢を追いかけた。

だが今は、
ただ静かに時間だけが止まっている。

それを見るたびに胸が締めつけられた。
悔しさとも違う、
言葉にできない重い感情だった。

それでも、その出来事だけは
心の奥で消えずに残り続けていた。

誰かが自分を認めてくれた。
あのぬくもりだけが
かすかな灯のように生き続けていた。

しかし心は、もう限界だった。

ある日を境に
私の中で何かが崩れた。

そして――
人が変わった。

「たかし……」

「なんだよ、うるせえな!」

自分でも信じられないほど
荒い言葉が口から出た。

「お前が生んだんだろう」

「知らねえよ。」

あれほど苦しんでいた
三歳の孤独は
いつの間にか奥へ押し込められていた。

代わりに
別の自分が前へ出てきた。

気がつくと、
あれほど私を苦しめていた火妖怪の姿も
見えなくなっていた。

静かに、
そして確かに――
私は別の人間になっていった。

― 黒子ダイル

















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