火妖人物語 第1話|火妖人の誕生-孤独の始まり 

火妖人物語

**火妖人(びようじん)とは**、孤独から生まれた「心の炎」
悩みや苦しさの中で、何も言わずにそばにいて、
静かに支え続けてくれる存在です。
 ーー増田ヨシヒロ

昭和三十二年の市川の長屋

昭和三十二年。
私、山田たかしは千葉県市川の町で生まれた。

まだ世界の半分も知らない、小さな子どもだった。

戦後の混沌から少しずつ立ち上がり始めた町は、古い家屋と新しい建物が入り混じる、不思議な景色をしていた。
バス通りはまだ舗装されておらず、砂利道だった。夏になると車が通るたびに土ぼこりが舞い上がり、空気の中に白い煙のように漂った。

太陽に照らされた砂利は、まるで小さな星のかけらが地面に散らばったように、キラキラと輝いていた。

路地に入ると、迷路のように並ぶ飲食店や居酒屋があった。
昼間でも薄暗いその通りには、酒と焼き鳥の匂い、皿のぶつかる音、遠くから聞こえる笑い声が混ざり合い、子どもの私の胸を妙にざわつかせた。

そんな町から少し離れた場所に、私の家があった。

長屋のような造りで、中央には井戸がある。
その井戸を囲むように三軒の家が並び、私たちはその一つに住んでいた。

二階建てなのに、雨が降ると一階だけで五か所も雨漏りする。
窓は固くて開かず、畳は四畳半。夫婦の寝床は畳を何枚も重ねただけの簡素なものだった。

二階の押し入れの奥には壁がなく、外の風景がそのまま見えていた。
机はタンスの引き出しを裏返して作ったもの。
窓はコールタールを塗ったトタン板で、閉めると昼でも真っ暗になった。

それが、私の家だった。

孤独の始まり

私が三歳の頃、町内会でスイカ割り大会が開かれた。
この部落の子どもたちが集まる、唯一のイベントだった。

貧乏な家族にとっては、高価なスイカが食べられる貴重な機会。
私も前の日から、よくわからないけれど、楽しそうなイベントだということだけは感じていた。

兄のひろしとあきおは嬉しそうに、家の路地裏から会場へ向かって歩いていった。
私もそわそわしながら後を追おうとした、その瞬間だった。

誰かが突然、私の腕をぎゅっとつかんだ。
よく見ると、母だった。

「たかしはまだ小さいからダメ!
もっと大きくなったらね。」

その言葉に、私は一瞬
「これは何なんだろう」
と思った。

足を止められた。

「ママ……なんで……なんでなの……」

私は叫び続けた。

「ママ、僕も行きたい。行かせてよ。」

そうこうしているうちに、兄たちの後ろ姿はどんどん遠ざかっていった。
ほんの数秒だったのかもしれない。
しかし幼い私には、とても長い時間に感じられた。

私はその場に取り残された。

「寂しい。寂しい。」

心の中で、そう感じていた。

泣き疲れた私を、一本の木の電信柱が静かに見下ろしていた。
まるで私の孤独を見守っているかのようだった。

その日、幼い私の心に「孤独」という妖怪が住みついた。

その時、胸の奥で何かが小さく笑った。

「寂しいか?」

それが、火妖人との最初の出会いだった。

孤独の中の遊び

兄たちは幼稚園に通っていた。

「行ってきまーす。」

二人とも楽しそうに出かけていった。
母も父も仕事へ行く。三歳の私は家に一人残された。

残された私は、いつも一人ぼっちだった。

川へ行き、ザリガニやタニシやドジョウを捕まえる。
家族のおかずになるからだ。

鳥を飼っていたので、木や塀のふちにいる昆虫も集めた。
大きな水槽には雷魚もいた。ミミズを取るため、よくドブに手を突っ込んだ。

近所のおばさんは言った。

「汚い……」

当時の私は気にしていなかった。
浄化槽もなく、排水は垂れ流しで、ミミズはそこにいたのだ。

そして、幼稚園に行ける年になっても、家が貧乏なため私だけ行けなかった。

再び、一人ぼっちの孤独な生活が始まった。
遊び相手はいない。大きなおばさんと自然、昆虫たちだけが相手だった。

小学校という別世界

年月が過ぎ、小学校に入学した。
初めての団体生活が始まる。しかし心は不安だらけだった。

私は三人兄弟でも、いつも相手にされなかった。
だから、人が人に見えなかった。

教室に入ると、私の席は右の真ん中あたり。
みんなはきれいなセーターや新しい服を着ていた。

私はお古のお古。

今日の服は古びたグレーのオーバーコート。
少し汚れていて、みんなとは違う世界にいるように思えた。

「おはようございます。」

先生の挨拶で授業が始まる。
私の小さな返事。緊張していた。

お弁当の時間。
母が一生懸命作ってくれたお弁当を、私は少し隠すようにして食べていた。

周りの子どもたちのお弁当には、卵焼きやウインナーなど美味しそうなおかずが並んでいた。
私のお弁当は質素だったが、それでも母が作ってくれたものだった。

そして月日が少し過ぎ、学校では給食が始まった。
しかし、その頃の学校はまだ完全給食ではなく、
日によっては弁当の日もあった。

給食で起きた牛乳の事件

ある日の給食。

机の上にパンと牛乳が置かれていた。
家では水しか飲まないので、牛乳は特別だった。

「おいしそう」

そう思い、飲んだ瞬間――

「ゲボッ!」

口から鼻から牛乳を吐き出してしまった。

机の上も、床も、周りも、あたり一面が牛乳の海になった。

周りの子どもたちは驚いて逃げた。

「どうしよう、ごめん……」

心の中で火妖人が騒ぐ。
私は顔面蒼白になり、その場で泣き出した。

先生がやさしく教室の外へ連れ出してくれた。

廊下の窓から、校庭が見えていた。
みんなは何もなかったように遊んでいる。

その時、心の奥で声がした。

「やっぱりお前は貧乏の子だよ。」

「ほらな。お前はみんなと違う。」

火妖人が、静かに笑っていた。

私はうつむいたまま、何も言えなかった。

人生初めての友達

二年生になった頃、私に友達ができた。

里見公園へ遠足に行く途中で、

「たかし君」

と声をかけてきたのは女の子だった。

最初は警戒したが、すぐに仲良くなった。
名前は「がいこ」ちゃん。

美人じゃないけど、ステキな女の子だった。

すっかり打ち解け、
こんな人と将来結婚したいな、と妄想するほどだった。

それ以来、学校では一緒に遊び、ふざけ合った。
毎日が夢のようだった。

しかし、残念ながらそれは長くは続かなかった。

一年後、がいこちゃんは遠くの学校へ行ってしまった。

再び一人ぼっちの生活が始まり、心の中の妖怪が姿を現し始めた。

学校からの帰り道

私はいつものように、一人で川の土手を歩いていた。
春になると桜が咲き、花びらが風に舞っていた。
その景色はとてもきれいだったが、なぜか私の心は静かすぎた。

みんなは友達と笑いながら帰っていく。
私はその後ろ姿を、少し離れたところから見ていた。

「どうして僕だけなんだろう」

そんな言葉が、胸の奥から静かに浮かんでくる。

その時、心の中で声がした。

「また一人になったな」

火妖人だった。

「でも、お前は慣れているじゃないか。
一人で生きることに。」

私は何も答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。

ただ、川の流れをぼんやり見ていた。

水は何もなかったように流れていく。
人の気持ちなど関係ないかのように、ただ流れていく。

その頃の私は、
「孤独」というものが何なのか、まだよくわかっていなかった。

ただ、胸の奥に小さな影のようなものが住んでいる。
そんな感覚だけがあった。

そしてその影は、少しずつ大きくなっていった。

やがて家に帰ると、また兄たちが待っている。

「おい、たかし」

兄の声を聞くだけで、胸がドキッとする。

「また、からかわれるかもしれない」

そんな思いが、体の中を走る。

私は家の前で、少し立ち止まった。

帰りたくない。
でも帰らなければいけない。

夕方の空は赤く染まり、長屋の屋根を照らしていた。

その赤い空を見ながら、火妖人が小さく笑った。

「お前の心の中にも、火があるんだよ」

その言葉の意味を、
その時の私はまだ知らなかった。

母の苦労

母は、どんなに体調を崩しても毎日働きに出かけた。

父は酒に溺れ、あばれはしないものの、いつしか仕事に行かなくなっていた。

雨漏りのする家。
飲んだくれの父。
三人の子供。

それでも母は、必死で働き続けた。

母の休みは、一年のうち正月の三日だけだった。

少し大きくなってから聞いた話だが、給食費が払えないこともあったという。
そのたびに母は近所を回り、頭を下げてお金を借りていたそうだ。

子どもの頃の私は、そんなことは何も知らなかった。

ただ、母はいつも忙しそうだった。

母は土日になると、
中山法華経寺の近くにある競馬場へ働きに行っていた。

平日は近所の洋裁工場でパート。

朝早くから夜まで働き続けていた。

今思えば、切ない。
そう感じる。

私は学校帰り、よくその工場に顔を出していた。

工場の中では、たくさんの女性たちがミシンを踏みながら働いていた。
カタカタカタカタ――
部屋の中には、ミシンの音が絶えず響いていた。

私が顔を出すと、誰かが気づく。

「たかし君、来たの?」

すると、みんな笑顔で迎えてくれた。

「よく来たね」

そう言って、お菓子をくれる人もいた。

私にとって、それが一番の楽しみだった。

母はミシンに向かったまま、こちらを見て少し笑う。

「もうすぐ終わるから、ちょっと待っててね」

その言葉を聞くと、私はなぜか安心した。

母はいつも忙しかった。
でも、私にとっては、世界で一番安心できる場所だった。

家の中の戦い

家に帰ると、兄のひろしとあきおがいた。

私は、家に入る前から少し怖かった。

「また、いじめられるかもしれない」

そんな気持ちがいつも心の中にあった。

小学一年生の私と、小学六年生の兄。
体の大きさは、大人と子どもほど違っていた。

ある日、兄のひろしが言った。

「ほら、殴ってみろよ」

そう言いながら、私の頭を手で押さえつける。

私は必死で手を振り上げるが、届かない。

兄は笑っている。

悔しい。
悔しい。

でも、どうすることもできない。

涙が止まらなかった。

すると、二番目の兄、あきおが言った。

「もうやめてあげなよ」

その声は、少し優しかった。

しかし、ひろしはなかなかやめなかった。

今思えば、完全ないじめだったのかもしれない。

その時の私は、ただ怖かった。

心臓がドキドキして、胸が苦しくなる。

心の中では、火妖人が騒いでいた。

「どうする?
お前、弱いな」

でも私は、何もできなかった。

ただ泣くだけだった。

毎日ではなかった。

けれど、こういう出来事があるたびに、
私の心の中の「孤独」という妖怪は、少しずつ大きくなっていった。

そして私は、ますます一人で遊ぶことが多くなっていった。

巨人の星

そんな私にも、夢中になるものがあった。

長屋では、初めてのテレビだった。

夜になると、大人も子どももみんな集まってくる。
近所の人たちが、ぞろぞろと部屋に入ってくる。

あの頃は、テレビのある家がまだ少なかった。

四畳半の部屋に、大人も子どももぎゅうぎゅうに座る。
立って見る人もいた。

みんなが楽しみにしていたのは、プロレスだった。

特に人気だったのは、
力道山の試合だった。

「おおー!」
「やった!」

部屋の中は、歓声でいっぱいになる。

また、プロ野球の巨人戦がある日も、みんな集まってきた。

当時の日本では、
読売ジャイアンツは特別な存在だった。

私はまだ小さかったので、
アニメを見るのも楽しみだった。

特に好きだったのは
鉄腕アトム、
そして
巨人の星だった。

「巨人の星」の主人公は、貧しい家庭に育ちながらも、
野球で人生を切り開こうとする少年だった。

私はその姿を、自分と重ねていた。

テレビを見ながら、
自分がホームランを打つ姿を想像する。

観客が歓声を上げる。
私はベースを回る。

そんなことを、本気で想像していた。

家の前には、ブロック塀があった。

私は毎日のように、そこへボールを投げていた。

バンッ。
バンッ。

何度も何度も、壁にボールをぶつける。

近所の人に怒られることもあった。

「うるさいよ!」

それでも私はやめなかった。

いつか、野球がうまくなりたい。

そんな思いがあった。

数年がたち、私は本物のプロ野球にも夢中になっていった。

特に好きだったのは、
長嶋茂雄だった。

サードから一塁へ投げる、あの独特のフォーム。
指先が震えるような投げ方。

とにかく、かっこよかった。

そしてもう一人、
王貞治。

三番・王、四番・長嶋。

この二人は、日本中の野球ファンに夢を与えていた。

私も、その一人だった。

少しずつ体も大きくなり、兄弟げんかも少なくなっていった。

それでも心の中では、
火妖怪が時々ささやく。

「お前はまだ小さい」
「お前はまだダメだ」

その声は、私をまた孤独の場所へ引きずり込もうとする。

「また、のけ者だな」

そんな時でも、
「巨人の星」と、長嶋茂雄が私を支えてくれていた。

もちろん、火妖人も私の味方だった。

運命の歌

小学校最後の年。

音楽の授業で、卒業の歌と校歌の練習があった。

先生のピアノに合わせて、一人ずつ歌う。
教室の中は少し緊張した空気になっていた。

男の子も女の子も、順番に一小節ずつ歌っていく。
中には、恥ずかしくて声が出なくなる子もいた。

やがて、私の番が来た。

私はまだ声変わりしていない高い声で、
校歌の一節を歌った。

「清らな窓よ――」

その瞬間だった。

教室がざわついた。

「わあー、すごい」
「たかし君、こんなに歌がうまかったの?」

クラスのみんなが驚いた顔をしている。
先生も、少し目を丸くして私を見つめていた。

私は何が起きたのか、よくわからなかった。

ただ、みんなの視線が一斉に自分に向いていることだけは感じていた。

今まで、誰からも注目されたことのない私。

いつも一人で、
いつもどこかでのけ者になっていた私。

その私が、初めて人から見られている。

胸の奥で、何かが静かに動いた。

まるで、長い間眠っていたものが、
少しだけ目を覚ましたようだった。

そのとき、心の中で火妖人が小さく笑った。

「ほらな。
お前の中には、火があるんだよ」

私はまだ、その意味を知らなかった。

けれど、この出来事が、
のちに私の人生を大きく動かすことになる。

そのことを、まだ誰も知らなかった。

もちろん、幼い私自身も。

静かに流れていた孤独な時間の中で、
その日、小さな火が灯ったのである。

著者:黒子ダイル

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