
**火妖人(びようじん)とは**、孤独から生まれた「心の炎」
悩みや苦しさの中で、何も言わずにそばにいて、
静かに支え続けてくれる存在です。
夢の終わりは迷い道
迷い道の入口
終わりというものは、いつだって静かにやって来ます。
昨日まで確かに見えていた道が、
ある日ふいに霧の中へ消えてしまう。
足元はある。
けれど、どこへ進めばいいのかわからない。
そんな時、人は気づかぬうちに
「火妖怪」を心に招き入れてしまうのです。
火妖怪とは、
人を負のスパイラルへ引き込もうとする妖怪。
もちろん、途中で引き返せる人もいます。
ですが私は、
なぜか元の道へ戻ることができませんでした。
大人たちは言います。
「夢を持ちなさい」
それが教えだったのか、
刷り込まれた価値観だったのか、
あるいは、人が生きるための本能だったのか――
今でも、よくわかりません。
ただ一つだけ、確かなことがあります。
私は、止まらなかった。
夢を追い続けていたのです。
それは生きる力だったのか。
それとも、
静かに燃え続ける欲望だったのかもしれません。
野球が終わった日
私は野球とともに生きていました。
けれど、夢は突然終わります。
立ち尽くしていました。
冷たい風だけが吹き抜け、
心だけが、その場所に取り残されていた。
「死にたい」
そう思ったこともありました。
若い頃というのは、
夢がすべてになってしまう。
だから夢が壊れると、
人生そのものが終わったように感じるのです。
その頃の私は、
自分の心の置き場所を失っていました。
ですが――
不思議なことに、
別の夢が静かに現れます。
小学校五年生の頃に触れたギター。
そして胸の奥に、
ずっと消えずに残っていた
「フォークシンガーへの憧れ」。
まるで長い時間を越えて、
再び運命がつながるようでした。
何も考えず、
普通に働き、
普通に生きることもできたはずです。
けれど私は、
その道を選びませんでした。
マーチンD28
十八歳の夏でした。
私は渋谷の石橋楽器店に立っていました。
憧れ続けたギター。
マーチンD28。
値段は二十五万円。
当時の給料の三倍以上はしたと思います。
私は財布から現金を取り出し、
静かに言いました。
「これをください」
店員は一瞬、
時間が止まったような顔をしました。
「はい……」
その声を、
今でも覚えています。
家へ帰り、
そっと弦に触れる。
――音が、空気を震わせました。
深く、
やわらかく、
胸の奥へ入り込んでくる音。
「さすがマーチンだ……やっぱり違う」
その瞬間だった。
心の奥で、
火妖人が静かに笑った気がしました。
「ほらな。
まだ、お前の火は消えていない」
そう言われた気がしたのです。
大企業を離れ、歌の道へ
サラリーマンだった私は、
休日になるとギターを抱えていました。
アリス。
さだまさし。
John Denver。
歌を覚え、
真似をし、
少しずつ自分の歌へ変えていく。
気づけば、
歌うことが生きる支えになっていました。
そして三年後。
私は会社を辞める決断をします。
家族は反対しました。
当然です。
安定した会社を辞め、
歌の世界へ行こうとしているのですから。
けれど、
それは初めて自分で選んだ人生でした。
しばらくして、
ある店から声がかかります。
「ここで、弾き語りをしてみませんか」
迷いはありませんでした。
小さなステージ
店のドアを開ける。
カランコロン――
鈴の音が静かに響きます。
薄暗い店内。
細長いカウンター。
壁にはJames Deanの写真。
そこには、
まだ昭和の空気が流れていました。
私はギターを抱え、
静かに歌い始めます。
好きな歌を歌い、
それでお金をいただく。
――こんな幸福があるのか。
そう思いました。
「アリスの『冬の稲妻』、歌えますか?」
「はい……!」
少し震える声。
けれど心は、
確かに満たされていました。
歌い続けるうちに、
少しずつ客が集まり始めます。
ですが――
あの頃の私は、
まだ「感謝」の意味を知りませんでした。
もし二十歳の時に、
その意味を知っていたなら。
人生は、
少し違っていたのかもしれません。
欲望の影
弾き語りを始めて、
数か月が過ぎた頃でした。
店は騒がしかった。
客たちは盛り上がっている。
けれど、それは
私の歌を聴いて盛り上がっているわけではありませんでした。
心の奥で、
何かが煮えくり返る。
「うるさい……
俺が歌っているんだ」
二十歳そこそこの私は、
まだ未熟でした。
私はわざと、
めいっぱいの声で歌い始めました。
その瞬間――
店の空気が変わった。
客たちが静まり返る。
私は思いました。
――勝った。
ですが、
それは勘違いでした。
数年後、
私はようやく気づきます。
ただ大声で、
相手を黙らせただけだったのだと。
本当の歌い手なら、
邪念を捨てて歌えたはずです。
その頃の私には、
まだそれができなかった。
そして、
火妖怪が笑いました。
「ほら見ろ。
お前は、自分勝手だなぁ」
悔しかった。
でも、
その通りでした。
私は静かに敗北を認めました。
広がる舞台
それでも、
歌は続いていきました。
市川真間の小さなスナック喫茶。
回転木馬。
クレドール。
新宿ジャコール。
そして、
病院での演奏。
夜の病院は、
息を潜めたように静まり返っていました。
ドアを開けた瞬間――
大きな拍手が起こる。
その音に包まれて、
私はようやく呼吸を取り戻しました。
そんな日々が、
三年ほど続きました。
夢と現実
ある日。
一人の男性が、
一枚の名刺を差し出しました。
ビクター。
「レコードを作ってみませんか」
胸の奥が、
強く鳴りました。
何度も曲を作りました。
「めぐり逢い」
「アルバム」
夢が、
現実へ触れた瞬間でした。
ステージ。
ライト。
拍手。
その中心に立つ自分。
けれど――
その人は大阪へ転勤してしまいます。
夢は、
ゆっくり遠ざかっていきました。
大会にも出ました。
駒沢。
目黒公会堂。
渋谷。
サンミュージック。
先生の前でも歌いました。
その時、
こう言われました。
「あなたは、自分の道を行った方がいい」
あの頃は、
意味がわかりませんでした。
でも今ならわかります。
私は、
誰かになるために歌う人間ではなかった。
自分の人生を歌うしか、
できない人間だったのです。
本当の歌
銀座の歌声喫茶。
風邪をひいていると言いながら、
圧倒的な声で歌う人がいました。
美輪明宏さんでした。
そして、
さだまさし。
ユーミン。
ハッピーエンド。
たくさんの歌に出会い、
私は少しずつ気づいていきます。
歌とは、
声の大きさではない。
音の美しさでもない。
心が、
言葉に触れる瞬間なのだと。
六十八歳になった今、
ようやく、その意味がわかった気がします。
最後に
吉田拓郎さんも引退され、
時代は少しずつ変わっていきました。
私も、もう若くはありません。
それでも――
まだ、
心のどこかに燃え残った火があります。
いつまで歌えるのかは、
わかりません。
けれど、
悔しいのです。
まだ終わっていない気がするから。
だから私は、
今日もギターを抱えます。
せめてYouTubeで歌えるうちは、
精いっぱい歌い続けたい。
夜の静かな部屋で、
ギターの弦を鳴らすたび、
火妖人が、
今でも優しくささやきます。
「まだ、お前の人生は終わってないんだよーー」
著者:黒子ダイル
第五話 完


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