火妖人物語 第2話|9回裏の逆転劇/火妖怪の暴走

火妖人物語

**火妖人(びようじん)とは**、孤独から生まれた「心の炎」
悩みや苦しさの中で、何も言わずにそばにいて、
静かに支え続けてくれる存在です。
 ーー増田ヨシヒロ

昭和三十九年七月、遠い日の夏空の下で

桜が終わりを告げるころ、
私は須和田ヶ丘の中学へ入学した。

初めて校門をくぐった瞬間、
小学校とは違う、どこか大人の匂いを感じた。

制服を着た先輩たち。
少し広く感じる校庭。
どこか張りつめた空気。

胸の奥では、
あの火妖人も小さく震えながら燃えている。

さすがに学生服はオニューだった。
あの頃の、薄汚れたお古ではない。

金持ちも、貧乏人も、
学生服を着てしまえば見分けはつかない。

それが、私には少しだけ誇らしかった。

私は胸を張って教室へ向かった。


「おはようございます」

教壇に立つのは男の先生。
その声に合わせて、全員が一斉に

「おはようございます」

と頭を下げる。

中学生になると、
さすがに少し大人だ。

みんな、互いを探るような目をしていた。


帰り際、廊下でクラブの勧誘を受けた。

もちろん、私は迷わず野球部を選んだ。

こうして、
私の第二の人生が始まった。


勉強より野球。

最初は球拾いからだ。

先輩の声が飛ぶ。

「バッチコーイ!」

その声に合わせて、
私は大声で応援する。

土だらけになりながら、
必死にボールを追いかける。

その時だった。

胸の奥で火妖人がささやいた。

「お前は、あれだけ練習してきたんだ。
すぐレギュラーになれるよ」

その言葉どおりだった。

二年生になると、
私はすぐにセカンドのレギュラーを勝ち取った。

順調だった。

あの火妖怪も姿を見せない。


さらに、
由美子という彼女もできた。

私たちは交換日記を始め、
他愛のないことを毎日のように書き合った。

夕方になると教室に残り、
二人でおしゃべりをする。

そして帰る前に、
そっと交換日記を渡し合う。

ときどき先生に
「もう帰りなさい。」
と叱られることもあった。

それもまた、
今では心に残る思い出である。


しかし、ある日。

家に帰ると、
とんでもないことが起きていた。

父と、父の兄が
激しく言い争っていたのだ。

「ここは俺の名義だ。早く出ていけ!」

「冗談じゃない。誰が出ていくものか!」

怒鳴り声が家中に響く。

その争いは、
一週間ほど続いた。

そして結局——

私たち家族は、
その家を追い出されることになった。


私は学校には行っていた。

だが、クラブは
無断で休んでしまった。

その様子を、
遠くから火妖怪が見ている。

「俺は知らないよ」

そう言って、
うす笑いを浮かべていた。


私は、次のキャプテンに決まっていた。

しかし、無断欠席が続いたことで
その座を外されてしまった。

ショックだった。

悲しみが一気にあふれ出す。

だが、昔の私ではなかった。
必死で涙をこらえていた。

胸の奥で、
火妖人の炎が小さく揺れている。

今にも消えそうだった。

本当の理由を、
誰にも言えない。

私はただ、
涙を飲み込むしかなかった。


やがて私たちは
近くのアパートへ引っ越した。

狭い部屋だったが、
少しずつ平穏な生活が戻ってきた。

そして半年が過ぎたころ。

私は再び野球部で
ピッチャー、そして四番の座を勝ち取っていた。


それから三か月後。

いよいよ
中学最後の野球大会がやってきた。

これまでの練習のすべてが
試される日だ。

みんな少し緊張していた。

「よし、頑張ろう!」

「オー!」

掛け声とともに
試合が始まった。


初回、2点。

その裏に1点を返されたが、
五回にはさらに3点。

九回にも1点を追加した。

誰もが勝利を信じていた。

だが——。

相手は粘った。

3点を返され、
差はわずか1点。

動揺した私は
フォアボールを出してしまう。

その時だった。

あの火妖怪が、
ふっと顔を出す。

「負けるよ」

ニヤリと笑った瞬間——

カキーン!

打球はレフトの頭上を越え、
二塁打。

逆転負けだった。


グラウンドには
沈黙が落ちた。

私も、仲間たちも、
声が出ない。

グラウンドの土だけが、
やけに赤く見えた。

部長が静かに言った。

「……よく頑張った」

その声も、
どこか力がなかった。


逆転負けのあと、
グラウンドを見つめながら私は思った。

あの時、
確かに火妖怪の声を聞いた。

あれは本当に、
ただの気のせいだったのだろうか。

その時はまだ知らなかった。

このあと私の人生に、
もっと大きな火妖怪が現れることを。

そして——
それが、あの包丁事件へとつながっていく。


それから三か月後。

学校で進路相談があった。

私は先生に、はっきりと伝えた。

「野球部の先輩が進んだ高校へ行きたいんです。
そこで野球がやりたいんです。」

それは千葉でも名の知られた、
野球の強い私立高校だった。

家へ帰ると、私は母にそのことを話した。

「母ちゃん、
あの野球の強い高校へ行きたいんだ。
甲子園にも何度も出ている高校で、
私のあこがれの先輩も行っているんだ。」

その瞬間だった。

台所にいた兄が、
突然、包丁を手に取った。

そして、ゆっくりと
私のほうへ歩いてくる。

「おまえ、私立へ行くなら、
ぶっ殺すぞ。」

兄は包丁を握りしめ、
鋭い目で私をにらみながら近づいてきた。


とっさに私は、
裸足のまま家を飛び出した。

春先の空気は、
まだ冷たかった。

アスファルトの冷たさが
足の裏に突き刺さる。

私はただ、
夢中で走った。

兄はきっと、
家に金がないことを知っていたのだろう。


数時間後。

私は家へ戻り、
こう言った。

「公立高校へ行くよ」

その言葉で
家の中は静かになった。


あの時——

きっと火妖怪は、
兄に乗り移っていたのだろう。

耳の奥で、
あの声が聞こえた。

「貧乏人なんだから、無理するなよ」

「ハッハッハ……」

あの笑い声は、
今でもはっきり覚えている。


自分の道を
自分で決めることができない。

だが、その時はまだ知らなかった。

この先の人生でも、
同じような出来事が
何度も起きることを。


春の、少し肌寒い季節。

それでも私は
胸の奥にある火妖人の灯りを

小さく、
消えないように、
静かに燃やし続けていた。


あの頃、由美子という彼女がいた。

交換日記をしながら、
他愛のないことを書き合う。

それだけで
毎日が楽しかった。

しかし中学三年の秋になると、
私はあることで悩み始めていた。

野球を取るか、
由美子を取るか。

私は正直に、
由美子に相談した。

「野球を続けたいんだ」

しばらく沈黙が続いた。

そして私は
自分の気持ちを決めた。

野球を選んだ。

由美子とは
卒業と同時に別れることになった。
二つを選ぶ洗濯もあったはずなのに…。
子供だったのだろう。

だが、
あの時の私には
それしか選べなかった。


火妖人は
静かに燃え続けていた。

そしてその炎は、
私を次の道へと導いていく。

ー黒子ダイル

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